OLD PHOTOS of JAPAN, 日本の古写真:明治、大正、昭和、古い写真を通して「日本」を知るフォトブログ

Old Photos of Japan
1860年代から1930年代の日本の写真を紹介しています。1854年、日本は200年以上続いた鎖国を解き、それは真に驚くべき変化の引き金となりました。ちょうどその頃、まるで運命かのように、写真が発明されました。古い日本が消え、新しい日本が生まれるにつれ、挑戦心ある写真家たちが写真を撮りました。貴重で珍しいこれらの写真から、古い日本の当時の暮らしを見ることができます。

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1890年代の有馬 • 温泉の村

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民家、温泉旅館、蔵などがぎっしりと建っている有馬温泉の風景。ここは、神戸に近い古くからの温泉地である。村のはずれを曲がりくねって流れているのは、 有馬川である。この川にかかる白い橋は太古橋で、近くの三田に通じる三田街道に続いている。背景に見える大きな山は六甲山で、この頃も木が少ない。1902年(明治35年)には、大規模な植林計画が始まり、1903年(明治36年)には再度山周辺で73万本が植樹されている。1


1.温泉寺(薬師堂)の鐘撞き堂、2.御所坊(温泉旅館)、3.下大坊(温泉旅館)、4.善福寺、5.太古橋、6.有馬川、7.三田街道、8.兵庫街道

伝説によると、二柱の神が、三羽の傷ついた鴉が有馬の水溜りの水を飲んで数日後には傷が治ったのを見たと言う。ここから保養地としての有馬温泉の歴史が始まった。

この小さな温泉地は、日本で二番目に古い歴史書である日本書紀に出て来る。これらの記録によると、舒明天皇(593~641)が631年に有馬に86日間滞在し、孝徳天皇(596~654)は647年に82日間滞在している。現代の旅行者の滞在が一泊二日という慌しい日程であるのとは大違いである。

このように華々しく始まった有馬だが、その後暫くは歴史から消えた。8世紀になると再び現れる。別の伝説によると、貧しい人々を多く助けた歴史上の人物で僧の行基(668~749)が、ここに来て温泉寺(薬師寺としても知られる)を建てたと言う。

或る日行基は有馬への道で、病人に行き会った。その病人は行基に、食べ物を買う金もないし、身体が弱って新鮮な魚しか食べられないと言った。そこで行基は長洲(尼崎にあった)まで行って、新鮮な魚を買って戻った。

その病人は魚を食べ終わると、皮膚のひどい痛みを訴え、「お慈悲と思って私の皮膚を舐めて下さい。」と頼んだ。行基が頼まれたようにしてやると、病人の身体全体から光を発して、行基の前に薬師如来の像が現れた。

「私は薬師如来だ。お前の慈悲深い心には大変動かされた。これから有馬へ行き、病人を助けなさい。私がお前の手助けをしよう。」と薬師如来は言った。2

行基は有馬に行って、言われた通りにした。薬師如来を祭るために建てたのが温泉寺だった。この話は伝説かも知れないが、行基が有馬を再建し、今も現存しているこの寺を建てたことは事実である。この寺には行基と薬師如来の像がある。左の写真は温泉寺の鐘撞き堂で、その左は上の写真から拡大したもの。右は、同じ鐘撞き堂の今の写真。

1097年、有馬の大部分が洪水で大きな被害を受け、その後一世紀近く温泉としての役割を果たさなかった。1191年頃、僧仁西が夢の中で有馬を再建せよとのお告げを受け、温泉を再建して温泉寺を修復し坊と言う僧侶のための宿を12軒営み始めた。これは平家源平合戦源氏に敗れた直後のこと。平家の生き残りが奈良吉野の光源寺の僧だった仁西と共にやって来て、これらの宿坊の営みを始めた。それから八世紀以上経っても、名前に坊がついた温泉旅館がたくさんある。

有馬が幸運に恵まれたのは16世紀まで。1528年には火災で破壊され、その直後の1545年には攻めてきた軍勢に荒らされた。1576年には再び火災に見舞われた。この時この村を救ったのは僧侶ではなく、一人の猛々しい武将だった。この武将とは豊臣秀吉(1537~1598)で、日本統一に努めた三人の武将の一人だが、1583年に心身の疲れを癒すために有馬に来ている。その後有馬へ定期的に来るようになり、1597年に温泉再建のための大計画を開始した。この時、仁西の建てた12軒の坊に加えて新たに12軒の坊ができた。

江戸時代(1603~1868)になると、有馬は温泉保養地として知られ始めた。この時代は永く続いた泰平の時代で、旅行は厳しく制限されてはいたが、神仏に参詣する場合と治療の場合は許された。

この時代、宿坊には入浴設備がなく客は3X6メートルくらいの大きさの公衆浴場を利用した。客の数が増えたので、坊では小さな宿を始めたが、これは小宿と呼ばれた。3

有馬は明治時代も繁栄を続け、神戸に近いことから外国人に人気があった。有馬を紹介した旅行ガイドの中で、最初のものではないにしても初期のものの一つは、1890年に出版された「Keeling’s Guide to Japan,」:

「内陸に約10マイル入ったところにある有馬の温泉は、全ての病気(例えば皮膚病やリューマチ系統の病
を治すと言われている。ここには、有名な有馬蓑もありこれは安価な骨董品を求める客が、買い求めている。」4

このガイドブック以降、全てのガイドブックはこの小さな温泉村を紹介している。

尤も山の中にある有馬に行くのは少々困難だったので、初めは歩くか駕籠で運ばれた。その後は人力車を使ったが、これは明治時代には安価で速い旅行手段だった。

昔からこの村に行くには、四本の主な街道の一つを利用していた。

住吉街道は住吉から六甲山を越えて12キロほどの道で、四時間ほどかかった。近道だったので、灘からの魚を運ぶのに利用された。そこでこの道は魚屋道(ととやみち)とも呼ばれた。この道は今も残っていて阪神深江駅からのハイキングコースとして人気がある。


有馬と神戸を結ぶハイキングコースの魚屋道

三田街道は有馬と三田をつないでおり、現在は国道51号線として使われている。

神戸街道は現在の兵庫区から唐櫃を経て有馬に通じていた。これは外国人が最も利用したルート。

生瀬街道は、京都や大阪から来る場合の入り口だった。この道は池田川西宝塚を通り一部で住吉街道と合流していた。

近代の交通手段が有馬へ通じるには多少時間がかかり、1898年(明治31年)になって、現在のJR福知山線が開通し、有馬への旅行者は鉄道で生瀬駅まで来て、そこから人力車を利用した。

有馬へ初めてバスが通じたのは1905年(明治31年)になってからのこと。このバスは有馬と三田駅を結んでおり、そこで旅行者は現在のJR福知山線から乗り換えた。

1915年(大正4年)になって、有馬と三田間の鉄道が開通し、1928年(昭和3年)11月28日には湊川駅有馬温泉駅間の鉄道が開通して、有馬は遂に神戸と直行で結ばれた。所要時間は57分だった。5

村へのアクセスが容易になったので、商売が増え人口も増えた。ピークは人口が3,968人に達した1965年で、それ以降は減少している。

人口

1872年(明治5年) 1,341人
1916年(大正5年) 1,770人
1936年(昭和11年) 2,007人
1965年(昭和40年) 3,968人
1992年(平成4年) 2,636人6

現在この町は、日本の殆どの温泉保養地と同様、醜いコンクリートのジャングルで川岸さえコンクリートが並んでいるが、訪ねるには面白い場所である。狭い道にははっと驚くような場所が多くあり、昔からの有馬がところどころ片隅に残っている。むろん温泉がここの主な魅力である。


昔からの有馬の一角

2008年4月に開業した新しい温泉旅館の御所別墅は、この村の将来に希望を持たせるもので、特徴のないコンクリートのビルではなく、日本の伝統的なデザインと現代的なデザインのフュージョンである。事実この旅館のオーナーは、何世紀もの間旅館の御所坊(上記の写真の#2と下の画像参照)を経営していたのと同じ一族である。


トップの写真の細部で、明治時代の元々の御所坊(左の建物)が見える。

1 (1989). A Centennial Tribute of Kobe. City of Kobe, 21.

2 元湯龍泉閣。有馬の昔話。2008年8月4日検索。

3 有馬温泉観光協会。有馬の歴史。2008年8月4日検索。

4 Farsari, A. (1890). Keeling’s Guide to Japan. A. Farsari, 136.

5 鷹取嘉久(1996)。見て聞いて歩く有馬。鷹取嘉久。

6 同書

撮影者: 撮影者未詳
発行元: 発行元未詳
メディア: 鶏卵紙
写真番号 70416-0002

写真利用許可を申請される場合は、この写真番号で指定して下さい。
オンラインのご注文も可能です(英語): 70416-0002 @ MeijiShowa.com

注意
写真の使用には料金が発生します。
Posted by • 2008-08-10
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